先週音声メディアのVoicyのパーソナリティ荒木博行さん(荒木マスター)のbookcafeでレイチェル・カーソンさんの『センス・オブ・ワンダー』が紹介されていました。
幼児を育てる親として、また自分のキャリアを見直している今の自分に必要な気がする!と購入し読んでみました。
『センス・オブ・ワンダー』 の中のレイチェル・カーソン
著者のレイチェル・カーソンはアメリカのベストセラー作家・海洋生物学者で環境汚染と破壊の実態を告発した『沈黙の春』で発表当時大きな反響を引き起こした方です。
『センス・オブ・ワンダー』は『沈黙の春』を執筆中に癌の宣告を受けていたレイチェルが、最後の作品として書いた未完の作品。数十分で読み終えることができるボリューム感です。
この本の中では甥のロジャーと出かけた森や海岸での小さな発見や出来事とその日々を通して感じたレイチェルの想いが穏やかに、時には熱を持って書き進められています。
翻訳された上遠恵子さんが本の帯に、こう書かれています。
子どもたちへの一番大切な贈りもの
美しいもの、未知なもの、神秘的なものに目を見はる感性[センス・オブ・ワンダー]を育むために、子どもと一緒に自然を探検し、発見の喜びに胸をときめかせる
ここにこの本のエッセンスがぎゅっと詰まっています。
発見のよろこびに胸をときめかせる
本の中でレイチェルが甥のロジャーと彼が赤ちゃんの頃から森に探検に出かけていく様子が書かれています。
わたしたちは、嵐の日も、おだやかな日も、夜も昼 も探検にでかけていきます。それは、なにかを教えるためにではなく、いっしょに楽しむためなのです。
嵐の夜に海岸で海がうなり声をあげているのを聞いて背中がぞくぞくするような興奮を共に味わったり、時には森の中でトウヒの若木を見つけてクリスマスツリーごっこをしたり。
トウヒはマツ科でクリスマスツリーに使われる植物ですが、5cmにも満たないトウヒの赤ちゃんを見つけてアカリスが小さな貝がらや松ぼっくりや銀色の苔を飾って楽しんでいるんじゃないかと想像して話すのだそうです。
本を読みながらディズニーアニメのチップ&デールがツリーデコをしている姿を想像してしまいました。
そう、いつもレイチェルはジェームスと様々なことを“一緒に感じる・楽しむ”為に探検に出かけます。
わたしたちはいつも森に散歩にでかけます。そんなときわたしは、動物や植物の名前を意識的に教えたり説明したりはしません。
ただ、わたしはなにかおもしろいものを見つけるたびに、無意識のうちによろこびの声をあげるので、彼もいつのまにかいろいろなものに注意をむけるようになっていきます。
子育てをしていると「あの花は~だね」と意識がそちらに向くように促したり、 「今日のお月さまは右半分だから上弦の月だね」と恥ずかしながら知識を教えようとしてしまうことがあります。
後々に校で学んだりした時に「あの時言っていたこれだったんだ!」と繋がると楽しいかな。とかあわよくば知識と結びついたらいいな。とよこしまな親心が頭を出してしまうのです笑
しかし、レイチェルは意識的に教えたりしなくてもロジャーはびっくりするくらい自然に名前を憶えていたと言います。そしていろいろな生き物の名前を心に刻みこむには発見のよろこびに胸をときめかせることほどいい方法はないと言っています。
大人になるにつれ失われる感性
子どもたちが元々備え持っているセンス・オブ・ワンダーは 私たちのように大人になるとどうなっていくのでしょうか?
子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直感力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。
この一節を読んで、ちょっと切ないようなでも図星でずしっとくるような感覚に見舞われました。
しなくてはいけないことに追われたり、周りの目を気にして自分を見失ってしまったり・・・。澄みきった洞察力や直感力は自分の中にどれ位の感度で残っているのかな。と思わず自問してしまう。
レイチェルは続けてこう語ります。
もしもわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない“センス・オブ・ワンダー = 神秘さや不思議さに目をみはる感性”を授けてほしいとたのむでしょう。
これこそがレイチェルが晩年この未完の書をもって伝えたかったことだと感じました。
もっとこの感性を大事にしてほしい。そっといつまでも大事に両手で守ってほしいという想い。
そして、この感性を新鮮に保ち続けるには、子どもと一緒に再発見し感動を分かち合う大人が、少なくとも1人そばにいる必要があるといいます。
子どもと自然を探検することは大人の五感を研ぎ澄ますこと
どれだけの感性が残っているか分からない自分は、豊かな感性を分かち合える存在の大人になれるか?と考えてしまいましたが、本の中でそっとヒントを与えてくれます。
子どもと一緒に自然を探検することは、まわりにあるすべてのものに対するあなた自身の感受性にみがきをかけるということです。それは、しばらくつかっていなかった感覚の回路をひらくこと、つまり、あなたの目、耳、鼻、指先のつかいかたをもう一度学び直すことなのです。
子どもと自然を探検することは私自身の感受性のリハビリテーションをしていくこと。。
雨上がり子どもの頃水を含んだ葉っぱに埋もれてかくれんぼをした秋の夕暮れ。
秘密基地をつくって茂みの中で枝や石などたくさんの宝物を集めて遊んだ暑い夏の日。
懐かしい、あの感覚をもう一度学びなおすことが第一歩になる。
親として子どもにしてあげられること
「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではない
レイチェルは大人が子どもにしてあげることに関してこのように述べています。
消化する能力がまだそなわっていない子どもに、事実をうのみにさせることよりも、むしろ子どもが知りたがるような道を切りひらいてやることのほうがどんなにたいせつであるかわかりません。
知識という大きな肉の塊をあげ続けたら消化不良になってしまう。
それよりも重要なのは、その子の特性をよく見て心の機微を見て、そっと小道を用意してあげること。
自分の価値観や親のエゴが邪魔をして難しくさせている時がありますが、親が出来ることは、元々子ども達が備え持っている「センス・オブ・ワンダー」を育んでいけるように環境をつくってあげる。それが全てなのかなと思います。
豊かな土壌を耕してあげること
子どもたちが出会う事実のひとつひとつが種子だとしたらさまざまな情緒やゆたかな感受性は、この種子をはぐくむ肥沃な土壌です。幼い子ども時代はこの土を耕すときです。
この一節を読んで、先日読んだ『「読む」「書く」「話す」は5分でやりなさい』(小宮一慶著)で出てきた「良樹細根(りょうじゅさいこん)」という言葉を思い出しました。
「良樹細根」はどんなに枝葉が生い茂っているように見える木でも、根が張っていなければ、いずれ枯れてしまうか、根元から倒れてしまう。という意味。
小宮さんの本の中では小手先の知識だけを身に着けるのではなく、自分のバックボーンを持ち正しい考え方を身につけることの重要性を説いているのですが、ここから子ども時代に豊かな土壌をはぐくんでいなければ、青年期に一見枝葉が生い茂っているように見えても貧しい土壌にやせ細った根っこしか張れていなくて倒れてしまう。
のではないかと感じました。
社会の中で生きる力を与えてくれるものは
レイチェルはセンス・オブ・ワンダーをはぐくんでいくことは、どのような意義があるのか?という問いにこう答えています。
地球の美しさと神秘を感じとれる人は、科学者であろうとなかろうと、人生に飽きて疲れたり、孤独にさいなまれることはけっしてないでしょう。たとえ生活のなかで苦しみや心配ごとにであったとしても、かならずや、内面的な満足感と、生きていることへの新たなよろこびへ通じる小道を見つけだすことができると信じます。
子どもが幼い今は、大人が観察しそっと道を切りひらいてあげる時。
しかし子育てもきっとあと十数年で終わると思います。
子供が自立して自分の足で社会で生きていく、まさにその時。
困窮した状態にあってもどう気持ちを保ち続けられるのか。
人生の喜びに繋がる道を自分の足で歩んでいけるのか。
今まで耕してきた土壌の質が問われるときなのかなと思っています。
大人になっても「センス・オブ・ワンダー」を持ち続けたい
レイチェルのもとに寄せられた年配の女性からの一通の情熱溢れる手紙から「不思議さに驚嘆する感性―”センス・オブ・ワンダー”は、生涯を通して持続するものであることを雄弁に物語っていました。」と語ります。
ロジャーと森を探検する中でつい感嘆の声をあげてしまう、というレイチェルご本人こそ豊かな”センス・オブ・ワンダー”の持ち主なんだろうなと感じました。
子どもの唯一無二の感性が揺れ動くのを傍で見守りながら、私自身も”感覚の回路”を開いていこう、そう強く思わせてくれた作品でした。
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